2005年03月04日

ネット社会における敬語の存在意義1

良く聞く意見の一つに「英語には敬語がない」
というものがありますが、これは間違いです
Will you 〜 と Would you 〜 では後半のほうが丁寧な言い方と一般的にされます
英語の過去形には時間以外にも相手との距離があることを示す用法があり
これが日本語の敬語に近いです

敬語とは相手との距離を表す言葉なのです

日本では古代より階級社会を2000年ほど経ているわけで
身分差における社会的な距離があり
敬語というのが発達しやすかった土壌があったでしょう

今ネット社会において我々は上下関係など関係ない、年齢が高い低いは関係ない
そういうルールの中で生きています
つまり敬語の存在意義が無くなってしまったのです

じゃあなぜお前は敬語使って書いているのだよ
と質問が来そうですが
私は世間を客観視しているという距離を敬語によって表現しているつもりです

posted by tenk at 20:38| Comment(10) | TrackBack(0) | 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年03月02日

謙虚さと傲慢さのバランス

日本で成功を収めれば外国でも成功を収めることが出来る
よく言われるこの台詞は日本の顧客の心をつかむ難しさを表現した言葉であるが
逆に言えばニーズに合わせることが出来れば成功できるという意味でもある
日本の消費者はニーズにあったものにしか金を落とさないのだ

日本のマスメディアは営利団体である
だから多くの利益を上げられるように記者は顧客の読みたいものを書く
顧客の読みたくない意見を書くことは売り上げの低下を意味する
だから朝日新聞は自分の読者層に合わせた記事を書く
北朝鮮の味方をして、在日韓国人の権利を声高に訴える
それ自体は仕方の無いことでもある。彼等にも家族があり生活がある。
読者層を無視し売り上げが低下するのは決してあってはならないことなのだろう
読者層のニーズに迎合する朝日新聞は非常に謙虚であるともいえるだろう
だから戦前は大衆の望むままの記事を書き、煽り
戦後にはすぐさま社会主義を待望する者のニーズにのっとった記事を書いたのである

謙虚さというのは確かに必要な要素ではある
他者とのコミュニケーションを円滑にし
意見を柔軟に取り入れることで自身の見識を広げる効果がある
だが謙虚になりすぎてはいけないのだ
なぜならそれは自分の考えや意見の多様性を殺すことにつながるからだ
また数の多い意見こそ正しいという考えは間違いであるから
読者に迎合しようがしまいが自己の責任の上で自分の意見を忌避無く言うべきなのだ

そういう意見は時に酷い非難に晒されることもある
誰だって批判されるのは怖い、私もそうだ。
だが言うべき意見は何万人に批判を受けようが言うべきであるし
何万人に支持されようが言うべきなのだ
周囲の声を無視する傲慢さも必要なのである

インターネットの世界を省みるに
ブログの運営者の中には何も考えずに流行の意見に賛同を示すか
批判を恐れて反対意見を言わないか
言ったら言ったで批判のコメントの嵐を受け閉鎖してしまう者もある
全く情けない、本当に情けないとしか言いようが無い

そういう意味では謙虚なだけのブログなど大衆世論に屈した負け犬のようなものである
わが道を貫き、思うところをズバリと言う
これがブログそしてメディア本来のあるべき姿なのではないだろうか
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2005年02月28日

匿名のリスクマネジメント

議論と言うのは意見の良し悪しが全てであって匿名でも問題はないという人もいる。
しかしそれは間違いである、匿名と実名には明白な差異が存在する。

極論を言えば匿名で意見を言う人は議論において無敵である、たとえ完璧に論破されてもペナルティを負うことがないからだ。その場合逃げてしまえばいいのだ。また現実にはなんの影響も及ぼさないのだから、引っ込んでいてふてくされていれば、じき忘れてしまう。また一人で何人もの人格を用意する事だって可能だろう。それぞれに別の論を展開させ。負けた人格を引っ込め別の人格で反撃することも可能だ。

対照的に実名で議論をする人は、仮に論破された場合社会的責任を負わされるケースさえ存在する。
弁護士の場合、素人に論破される人間と言う風説が広まれば致命傷だ。
また匿名の場合、そこに記されている意見の内容しか批判されないが、実名の場合、HP、著作物、掲示板の発言全てを引用して批判される。

圧倒的に非対称だというのは明白である。

しかし実名での意見が有利な点もある、名の通った論客の場合、「場」を整える媒体の役割が出来るし
理念と行動が一致していることを証明も出来るのだ。
また自分の発言を守った場合社会的責任は現実の自分に還流される。

また匿名のメリットとして、普段いえないクリティカルな意見を引き出すと言う作用がある。
HNという仮想人格を作ることで社会的、精神的ダメージを抑えつつ批判を受けることが出来るのである。HNの評判を上げていくことで現実にその評判を反映させていくことも可能だろう。

匿名>捨てハン>HN>ある程度社会的責任を獲得したHN>実名

の順で匿名度が高くなると認識している。

以上メリットとデメリットの分析をしてみたが
私は匿名度が極端に離れた議論と言うのは行われるべきではないと思う。
一方が捨てハン、匿名で意見を言うならばこちらも捨てハンで対抗すると言う措置を取るべきだと思う
それがネット社会のリスクマネジメントというものだろう。
もっとも自分に自信ががあるのならば実名の議論を勧める。
匿名度とリスクゲインの関係は反比例のグラフを描くのだから。

参考 絶望書店日記 平均寿命23歳
    面とペルソナ(こちらは和辻哲郎の同名の本もお勧めです)
    技術系サラリーマンの交差点 私がネットで実名を名乗る理由
    実名と匿名の意義についてITビギナーと対話してみる
    コテハンの効用
    生命倫理学講義(3) -パーソン論-
    上海アリス幻樂団 幻想掲示板

tokumei.JPG
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2005年02月26日

レイアウトをいじってみました

・記事の文字サイズを大きくしました(10→14)
・記事の横幅を少し大きくしました(464→520)

何か感想、要望がありましたらコメントお願いします
posted by tenk at 14:42| Comment(2) | TrackBack(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年02月25日

黄色い血

大都市では定期的に献血キャンペーンを開き
献血をしたかたにドーナッツやジュースなどを振舞うということがあります。
そのわりに血液不足を訴えることもあり
「そんなまどろっこしいことをせずに、直接お金で支払えばもっと効果的に血液が集まる」
という意見を良く聞きます。以前テレビでコメンテーターがそういう意見を言ったのも覚えています。

実はそれは我々が40年前に通った道なのです。

タイトルをググってもらえれば一発なのですが、1964年に駐日大使のライシャワー氏が暴漢に刺される事件があり、金で買った血液を輸血したあとに肝炎にかかったことが判明し、大騒ぎとなりました。ライシャワー事件といいます。

問題点としては
・一度売血を生業にしてしまうと体が弱ってしまってそれ以外の仕事が出来なくなること
・病気で収入のない人が血液を売りに来てしまうこと
・それによって輸血用の血液が二次的被害を及ぼすこと

があります。
ホームレスの方を「血を売って暮らしている」などと言うこともありますが
これはそこからきているそうです。

品質の良い血液を集めるためには報酬が生業にならない程度になるように工夫が必要になるのです。
こういうのをモラルハザードというのでしょうかね。

参考 献血の知識を知るためのホームページ
   売血 若き12人の医学生たちはなぜ闘ったのか
   健康のページ 肝細胞癌

posted by tenk at 23:09| Comment(0) | TrackBack(3) | 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年02月24日

調停者のいないネット社会の行く末

かつて「神は死んだ」とニーチェが言った。それにより超越的な存在を介し個と個を結び付けていたヨーロッパ人はその価値体系においてばらばらの個に分散してしまったのだ。近年個とはますます強くなる傾向があり、パソコン(personalcomputer)のとインターネットが個人主義をよりいっそう強くすると私は考える。なぜなら「とある集団の考え」ではなく「私の考え」をメディアに載せることが可能になったからだ。

そうしたメディア、インターネット上の仮想社会というのは新しい概念であり。我々は素性も分からぬ個と個同士の漠然としたつながりがある。そうした社会では多様な価値観を受け入れる考え方が必要であると、そのように学校では習う。だがそうした価値観はますます個人をばらばらにしてしまう。日本においても個人は徐々にばらばらになっているのだ、インターネットと関係ない場面においても、電車の中で喧嘩をする人、学級崩壊、などは個人主義と切り離せるものではないだろう。旧来、世間を介在に繋がっていた我々はもうじきばらばらになる。言い換えれば「世間は死にそう」なのである。

民主主義とは個人の考えを集め政治に反映させるものである。そうした意味でネット上では普遍的な民主主義が実在していると言える。日本の匿名ネット社会では良し悪しに関係ない意見の集まりのみが力を有すのだ。最近弁護士の小倉氏のblogが炎上すると言う騒ぎがあり、小倉氏は「blogを力で閉鎖させるのは民主主義の敵」といったが正しくない。これはネット上の民主主義に則った形であり「我々が議論に足らぬと判断した人間にコメントラッシュを行うのはネットルールで正しい」のである。陳腐で凡庸で過酷で抑圧的な民主主義は人類が生み出した最高の政治制度なのである(橋爪大三郎)。

そしてそこには秩序を保つ番人はいない、ただの仕切り屋がいるだけである。

誹謗中傷や実名晒しなど現実に影響する害が実際に起こる中で、どうすることも出来ないまま時間が過ぎている。公的権力も現実に影響するとなればネット社会に介入せざるをえなくなるのではないだろうか、公的権力がパーソナルに踏み込む必要性が出てくるのである。今は大きく介入されることはない、だがそうなったときに個人の自由は著しく阻害されるのではないだろうか。こういうと「みんなでネットルールを守ろう」と言いだす人もいるのだが。その言葉は無意味である。罰がないなら犯罪が横行するのは自然の理だからだ。

少なくとも現在の構造がこのままということはない。ならば私たちは新しいネットワークの社会構造を検討する必要があるのではないだろうか。そういった話がトンと聞こえてこないことに私は危機感を感ぜざるを得ないのである。

参考:たかが民主主義、されど民主主義
   情報社会の倫理と民主主義の精神
   インターネットとは、個人の考えを促進するツールである。
   
   
posted by tenk at 01:15| Comment(4) | TrackBack(0) | 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ルイヴィトンと東大生3

・ブランドというのは社会的価値だ
・我々を取り巻く全てが勘違いの積み重ねで出来ている

以上から東大生、どころか肩書き全てがまやかしなのです。
しかし文化が勘違いだと分かっていたとしても
我々は文化を離れて生きる術をもはや持っていません

・つまり我々はだまされ続けるより他無いのです

例えば往来で社会など無い、国家など無い、日本と言う国家など無かった
などと言ったら変人扱いされてしまうのは確実でしょう。

ただし勘違いの上にさらに勘違いを上塗りすることは可能です。
レッテルの上にもう一枚レッテルをかぶせてしまうのです
東大生は馬鹿、ルイヴィトンは高いだけのバッグなど
風説を流布することが可能なインターネットとレッテルの貼りなおしは非常に親和性が高く
今後問題になってくるかもしれません

posted by tenk at 00:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年02月23日

歴史の見方

http://homepage2.nifty.com/mazzn/287.htm
こちらのページの下のほうにあった小論文の問題文が非常に考えさせられます

要約すると

20世紀の歴史家の意見
・歴史とは歴史家によって造られる。
・捏造は許されない
・証拠(ソース)とは解釈の妥当性を問うものである。

現代のある歴史化の意見
・真実に近いと言う根拠を、客観的な「証拠(ソース)」という歴史的事実に求めることは間違いだ
・歴史を物語るときに必要なのは事実そのものでなく論理的プロット(筋書き)である
・そのため「歴史的事実は無で、解釈が一切」ということになる
・したがって極論では「無限の解釈」が許される。

ということですが、ちょっと模範解答が悪いです。
私もこの答えを書いてみようと思います。

歴史とは誰のためにあり何のためにあるのだろうか。
「ただそこにあり、それを勝手に使っているだけだ」と言う人もいる。
確かにそれはそうであろう、歴史とは万人に開かれた解釈一切だからだ。
しかし如何様にでも使っていいわけではない、影響を受けるのは我々なのだから、私は歴史を自分たちのために使うべきだと考える。
そしてそのためには真実と向き合い、接近する覚悟が必要になる。
なぜなら甘い印象操作や都合のいい捏造は耳障りがよく、まるで悪魔の誘惑のように、我々の精神をとろけさせてしまうからである。
一方で真実とは耳に痛く、聞くのにひどい苦痛を伴う場合もある。
しかしその言葉は経験に基づく実証であり、その教訓は我々を高めてくれるものだろう。
では我々はどうやれば真実に近づけるのだろう。
徹底的に議論するより他は無いだろう。
歴史は議論を重ねることで研鑽され、跡に輝く真実、教訓が見えてくるからだ。
そうした意味で我々は非常に幸せである、課題文のように終わらぬ議論が残された、
日本という国家の歴史の豊穣さは他に比類の無いものだと考えるからだ。
歴史を磨くことで、精神を高めること、これが私の考える歴史のあり方である。(492字)

感想や添削、自分の解答、異論のコメント受付中です。
posted by tenk at 01:10| Comment(1) | TrackBack(0) | 政治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年02月22日

歴史の見方

(略)歴史教育のあり方は、複雑な要因のからみ合う歴史事象のなかから一つをとり出して、これが根本だとするのでなく、歴史における多元的矛盾(わるい意味ではありません)の所在を学生に教えて、学生の批判精神を高めることにあると思います。どんな見方にも制約があるので、その制約から来る盲点(歴史のある側面がみえなくなること)の指摘の方が、歴史観に○×をつけるのより大事だというのが、戦争の反動期をくぐった私の考え方です。(略)
(丸山眞男)

こちらのサイトで見つけた言葉です
http://homepage2.nifty.com/mazzn/287.htm

資料を探しているときにふと見つけたので紹介します。

あえて私があれこれ言う必要など無いのですが一つだけ要約します、

歴史観に○×付ける、これが正しいあれは間違い
そういう歴史の見方よりも情報の裏側にある盲点を指摘できるような人間になるべきだ。




posted by tenk at 00:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 政治 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年02月21日

ネット右翼の正体とは右翼ではない

2chにおいて必須とされるスキルに「空気を読む」というものがある。
不特定多数の他者が何を望んでいるかを瞬時に察知し、それからはみ出ない行動を取るという能力のことだ。
私たち日本人は自分の意見を言うことに得意ではない。特に全体の意見に異なる自分の意見を述べることに非常に消極的である、批判などもってのほかである。なぜなら世間の中では目立たないことが良いこととされ、控えめな態度が望まれるからである。空気を読んでいるだ。
だから無記名での投書が大好きなのだ、この価値観に適合するネットの匿名文化というのは日本人において発展することが約束されていたようなものだ。

だから皆が何かに向かって動いているときには、自分も動かないといけないと無意識に支配される。(無意識というのは自覚できないから無意識なのである、自覚できる無意識は無い)
例えばそれが炎上であり、コメントスクラムであり、もっと言えば初鰹を求める人々であり、ワインブームに踊らされた人であり、韓流ブームに踊らされた人であり、マスメディアの宣伝に乗って勝ち目のない主戦論を唱えていた人々である。
皆がやっているから、私も、僕もと次々に祭り参加し大きなうねりとなる。

そしてそこに参加する人々があるブログを批判する流れになった。ムーブメントの対象になった側はひとかたまりの思想を持った集団に見えたため一括りにして「ネット右翼」と呼んだのではないだろうか
この場合、彼が左翼であったことが「ネット右翼」という名称でよぶ原因になったわけであり。時代が違えば「ネット左翼」だったかもしれないしもっと別のものだったかもしれない。彼等にとって大切なのは刹那の流れであり、そこに統一的な思想など見出せるはずが無い、「ネット右翼」というカテゴライズは間違いだという意見はもっともである。

では「ネット右翼」と呼ばれる人々とはなんなのか、「ポピュリスト」である。
「それ」は空気に従い、その時その時にもっとも人気のある側につく。人気になる理由はなんだっていい、例えば今なぜ右ッぽい人が2chに多いかというと単純にカッコいいからである。一昔前は反戦平和そのものが思想が高潔でカッコイイと考えた人々が多かった、しかし今はそういう人々に対し、資料を突きつけ、証拠を提示し新たな根拠ある歴史を提示し相手を論破する、左翼はダサい、右翼はカッコいいという考え方に人気があるのである。議論自体は活発に行われるべきである。問題は論破した人間はポピュリストでは無く。尻馬に乗る人々がポピュリストであるということなのである。彼等は議論そのものにはあまり興味が無いのだ。また「それ」は正しさだとかよりも、エンタテインメント性やカッコよさといった空気を重視する。だから悪いことでも感情で正しいと思えば。

赤信号 みんなで渡れば 怖くない

といった感じで気軽にやってしまう、匿名かつ集団で責任意識が薄いからである。

昔テレビで中国人の「日本人は個人では砂粒であるが、集まると龍になる」というコメントを聞いたことがある。日本人の結束力を感嘆した言葉であろう。ポピュリストが良き龍となって社会に利益をもたらすことを願う限りである。




参考:なぜ知識人は2ちゃんねるにショックをうけるのか?
   Honda:トラフィック・マナー/人対クルマ
   ラブラブドキュンパックリコ
   Blogのコメント欄が賛同か批判の両極端になりやすい理由とは?
posted by tenk at 02:31| Comment(16) | TrackBack(3) | 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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